「厳しい指導」は、スペイン語に訳せない ―― ビジャレアル・佐伯夕利子氏に学ぶ、ハラスメントを生まない“学び直す指導”

「厳しい指導」は、スペイン語に訳せない

「厳しい指導」。日本のスポーツ現場では、当たり前のように使われている言葉だ。けれど、この言葉はスペイン語にも英語にも訳せないという。そう語るのは、スペイン・サッカーのビジャレアルCFで長年育成に携わってきた佐伯夕利子氏だ。コーチング学のどこを探しても、そんなメソッドは存在しないからだ。

存在しないはずのものを、僕らは指導法のように扱ってきた。そのズレの先に、何度も繰り返されるハラスメントがあるのかもしれない。

佐伯氏は1992年にスペインへ渡り、指導者としての道を歩んできた。2018年にJリーグの特任理事、2020〜2022年には常勤理事を務めた経験もあり、現在はスポーツハラスメントZERO協会の理事でもある。日本とスペイン、両方の現場を知る数少ない人物だ。

今回は、佐伯氏が出演した4本の動画をもとに、その考え方をたどってみた。スポーツライター・宇都宮徹壱氏によるインタビュー3本と、テレビ東京「FOOT×BRAIN+」の育成特集だ。ハラスメントと育成。一見ばらばらな2つのテーマをつなぐのは、「学習」というたった一つのキーワードだった。

目次

ハラスメントは、なぜ「繰り返される」のか

きっかけは、2026年のシーズン開幕直前に起きたある出来事だった。パワハラで処分を受け、指導者ライセンスの停止と再教育を経て復帰したJリーグの監督が、再び同じような行為を問われ、指揮を執ることなくクラブを去ったのだ。処分、学び直し、復帰。制度としては手順を踏んだはずなのに、止められなかった。

こうした事案が起きるたび、議論は二つに分かれがちだ。「その人の資質の問題だ」という声と、「制度が悪い」という声。けれど佐伯氏は、どちらか一方では説明できないと言う。人の問題でもあり、その人が置かれた環境や仕組みの問題でもある。それらが複雑に絡み合っていることこそが、どれだけ啓発しても、通報制度を整えても、なかなか改善しない理由だというのだ。

そのうえで、佐伯氏たちの協会は一つの姿勢を貫いている。人を裁くのではなく、行為に集中することだ。ハラスメントは誰かが一人で起こすものではなく、目の前に他者がいて初めて生まれる。つまり、人と人の関係性の中で起きる出来事だ。

では、なぜ不適切な行為は生まれるのか。佐伯氏の答えは明快だ。それは「誤学習」の結果だという。指導とはこういうものだ、選手はこう扱うものだ――そうやって長い時間をかけて身につけてきた誤った学びが、ある瞬間に言動として表に出る。だから協会がこだわるのは、罰則ではなく、健全な学習の機会を届けることだ。誤学習を健全な学習で上書きしていけば、人の思考は変わる。そう信じているのだ。

興味深いのは、罰則と「社会の納得」を切り分けて考えている点だ。出場停止が1年続いたとしても、それで被害者やファンの心が癒えるわけではない。復帰が受け入れられないのは、その人がどこまで自覚し、どう変わったのかという「変容のプロセス」が見えないからだ。みんな心のどこかで、口先だけの謝罪ではないかと感じている。

そもそも、1年や2年で人の思考は変わるものなのか。学び直しの中身は、本当に効果が出るように設計されていたのか。佐伯氏の問いは、個人を責めるよりもずっと長い時間軸で、この問題を見ている。

「厳しい指導」というメソッドは、どこにもない

「努力を促すためには、ある程度の厳しさも必要だ」。そう考える人は今も多いと思う。正直に言えば、僕自身もその感覚を完全に否定できるかというと、怪しいところがある。

佐伯氏は、日本の関係者からこの言葉を聞くたびに考えてきたという。みんなは一体、何をイメージして「厳しい指導」と言っているのだろうか、と。そしてたどり着いた結論は、指導論としての「厳しい指導」は科学的にも学術的にも存在しない、というものだった。だからスペイン語にも英語にも訳せない。日本の社会が都合よく作ってきた造語だというのだ。

では、その言葉の先に何があるのか。罵倒する。殴る、蹴る。丸刈りにさせる。相手を見下し、名前すら呼ばずに「おい」「お前」で済ませる。並べてみると、もはやスポーツの話ではないことに気づかされる。スペインの人に伝えたところで、指導論ではなく「人として最低限のことができていない話」として受け取られるだろう、と佐伯氏は言う。

佐伯氏が最大限好意的に解釈しても、指導論に当てはまりそうなのはトレーニングの「負荷」くらいだ。しかしプロの現場では、負荷はピリオダイゼーションで週単位に細かく調整するものだ。厳しさとは関係がない。結局、話は言葉の選び方やコミュニケーションに行き着く。

言葉があるから、概念が生まれる。概念があるから、それを正当化できてしまう。「厳しい指導」という言葉そのものが、ハラスメントを助長する要因の一つになっているのかもしれない。

「勝つためなら」という信仰

もう一つ、佐伯氏が釘を刺すのが「勝つためなら許される」という感覚だ。

どれほど名将と呼ばれる指導者でも、一度も負けなかった人はいない。データを出せば、誰もがそれなりの確率で負けている。試合の結果は勝ち・負け・引き分けの3つしかなく、そこに至るまでには無数の要素が絡み合っている。その中で、人を尊重しない扱いだけが勝ち点3に直結する。そんな都合のいい「信仰」が、スポーツ界にはあまりに多いと佐伯氏は言う。

続けて佐伯氏は、日本の議論でよく出てくる「空気」について、こんな見方を示した。

空気には、名字と名前がある

ハラスメントを見逃す、許容する。日本では、そうした空気が物事を決めてしまうことが多い。ただ、空気は目に見えないものではない。佐伯氏は、空気には実は名字と名前があると言う。

その場にいる一人ひとりの言動が集まって、空気になる。だとすれば、空気を変える側に回る人が一人ずつ増えれば、空気は変わる。言われてみれば当たり前の話だけど、「空気だから仕方ない」と思っていた自分には、かなり耳が痛い。

スペインの人たちから言われたという言葉も印象に残る。ハラスメントとは、権力が力を発揮している状態だ。だから権威が効力を持たない環境では、その力は失われる。そういう人は、そもそも指導の場を与えられない。変えるべきなのは個人だけでなく、その力に効力を与えている周りの環境なのだ。

問題は「世代」ではなく「継承」

インタビューの中で宇都宮氏は、世代についても言及している。昭和40年代生まれの指導者には、部活動で厳しい指導を受け、それを正しいとしてきた人が多い。その考えを今さら変えられないと開き直る人さえいる、と。

佐伯氏も、傾向としてはあると認める。しかし驚くことに、20代の指導者にも同じような人はいるという。だから本質は世代ではなく、「継承」にある。そういう扱いを受けた人は、そのように学習する。そしてその学習が、人間の軸になっていく。

佐伯氏は、自分自身もその例外ではないと言う。今の自分は、生まれた瞬間から始まったわけではない。記憶にもない何世代も前から受け継がれてきた文化やストレス、学習が、どこかで影響している。

そして何より怖いのが、「無意識」だ。自分が受けた指導をコピーペーストしている。そういうものだと思って、なんとなく言っている。その無意識が、人を傷つけている。だから佐伯氏は、指導者が自分の言動を一つずつ意識の領域に引き上げる「無意識の意識化」こそが必要だと言う

ちなみに佐伯氏は、啓発動画や単発のセミナーには手応えが薄いとも率直に語っている。そういう場に来るのは、もともと意識の高い人が多いからだ。時間はかかっても、学習に向き合い続けるしかない。では、「無意識の意識化」を実際にやるとどうなるのか。その答えが、佐伯氏の足元であるビジャレアルにあった。

ビジャレアルは、まずカメラを自分に向けた

ビジャレアルは、スペイン東部の小さな町のクラブだ。それでも、世界有数の「育成型クラブ」として知られている。番組によれば、前シーズンのトップチーム25人のうち10人がアカデミー出身。バロンドールを受賞したスペイン代表のロドリも、このクラブで育った選手だ。受賞の際、ロドリはクラブで学んだこととして「人として」の部分を強調していたという。

そんなクラブも、かつては悩んでいた。期待された選手が思うように伸びず、プロになれずに挫折する。不祥事も起きる。自分たちは選手に、何か新しい学びを本当に提供できていたのだろうか。そうした反省から始まったのが、選手ではなく指導者を進化させる改革だった。

最初にやったことが、とても象徴的だ。それまでピッチに向けていたカメラを、180度逆に向けたのだ。指導者は胸にアクションカメラとピンマイクを付ける。自分がどんな言葉を発し、それを受けた選手がどんな表情や反応をしたのか。それを全員で振り返ることを、最初の3年ほど徹底して続けたという。

考えてみれば、選手は常にプレーを映像で切り取られ、評価されている。ところが指導者には、それがなかった。指導者も同じように裸になろう、と組織として決められたことが大きかったと佐伯氏は振り返る。前の章で触れた「無意識の意識化」を、文字どおり映像で実現したわけだ。

指導者は「リモコン」になっていた

映像が浮かび上がらせたのは、「リアクションコーチング」と呼ばれる問題だった。「打て!」「右!」と、目の前のプレーに反射的に指示を出し続ける。まるでテレビゲームのコントローラーだ。クラブでは指導者同士で「リモコンになってるよ」と指摘し合うようになったという。

短い指示は伝わりやすい。しかしそこには、指導者の意図が欠けている。そこで試合前に、どこに焦点を当て、どんな場面でどんなフィードバックをするかを書き出して共有するようにした。コーチ全員がそれを「台本」のように持って試合に臨む。場当たり的な声かけを減らすためだ。

さらに、選手一人ひとりが自分の課題と目標を決める「ゴールセッティング」を導入した。コーチの役割は、勝つために選手を動かすことから、その成長を支援することに変わる。課題が選手と共有されているので、声をかける場面もタイミングも自然と定まってくる。試合の勝敗ではなく、個人の成長プロセスに焦点を当てる。その積み重ねが、ロドリのような選手につながった。

「教える」は、思考のインターセプトだ

改革の中で、ビジャレアルは「教えるとは何か」という議論にも踏み込んだ。そして、ひとまずこう定義した。教えるという行為は、学習者の思考をインターセプトする行為である、と。

サッカー好きなら、この比喩はすっと入ってくると思う。選手が自分で探り、迷い、発見しようとするその手前で、指導者が答えを奪ってしまう。そこで選手の思考は止まる。もちろん、何も教えないわけではない。ただ、「自分で考え、判断できる選手を育てたい」と言いながら、実際には答えばかり与えていた。言っていることとやっていることが違う。そのズレも、胸のカメラがそのまま映し出していた。

教え込まれて育った選手は、「覚える学習」しかしていない。動きに意味が宿っていないから、試合で再現できない。佐伯氏も長く「練習では抜群なのに、試合では活きない選手」に悩んできたという。そして行き着いたのが、原因は自分が用意した練習環境の側にある、という結論だった。

選手に自分で探求させ、発見させ、ミスをさせて、もう一度トライさせる。そのプロセスを尊重するには、指導者が「余白」を持ってピッチに立たなければいけない。以前このブログでスペインの保護者の関わり方を取り上げたときにも、この「余白」という言葉が出てきた。親も指導者も、待つことを求められているのだ。

番組では、ブラジルのコーチから聞いたという話も紹介されていた。技術なら日本の選手はもう十分に高い。それでも試合なら負けない。日本人が次に何をするかは分かるが、ブラジル人は自分たちでさえ分からないからだ、と。教えすぎることの副作用を、これほど端的に表した言葉はない。

この「教えない」指導については、佐伯氏自身が一冊の本にまとめている。ビジャレアルの指導者改革を、「人材育成」という切り口で7つのスキルに整理したものだ。サッカーの指導者や親はもちろん、部下を持つ人にも役立つ内容だと思う。

ハムサンドと「今、何が見えた?」

ビジャレアルの指導者たちが学んだコミュニケーションの工夫は、どれも驚くほどシンプルだ。

一つはハムサンド。選手に伝えたい改善点をハムだとする。以前は、いきなりハムの話から入っていた。しかし人は感情の生き物だ。苦手なところを先に指摘されると、心のシャッターを下ろしてしまう。だからまず、努力や良さを認める言葉(ふわふわのパン)。次に改善点(ハム)。最後に「君ならできる」と、もう一度パンで包む。

番組MCの勝村政信氏も、海外の演出家との仕事で同じことを感じたと話していた。まず褒め、その後で「一つアイデアがあるんだけど」と提案し、役者の意見も聞く。そこで交渉が生まれ、合意が生まれる。佐伯氏は、この合意形成のプロセスこそが、自分たちからごっそり抜け落ちていたと語る。

もう一つは、指示を問いに変えることだ。「こうしなさい」という指示の主語は、指導者だ。指導者にそう見えていて、指導者がそうしたい。この主語を選手に入れ替えると、指示は自然と問いに変わる。

たとえば「今、何が見えた?」という問い。選手に見えていたものは、選手にしか分からない。正解もなければ、反論の余地もない。その答えから、指導者は「右のパスコースは見えていなかったんだな」と選手の現在地を知る。じゃあ見えるようになるには、体の向きをどう変えればいいか。それを次のトレーニングに落とし込む。これこそが本来のコーチの仕事なのに、「右だろ、今のは!」と叱責を繰り返していた。その悪循環を断ち切ったのが、問いだった。

観客は「応援」ではなく「鑑賞」に来ている

話をハラスメントに戻そう。この問題で傷つくのは、選手やスタッフだけではない。冒頭の事案でも、サポーターは擁護する派と受け付けない派に分かれた。「この監督がいる間は応援しない」と、スタジアムから足が遠のいた人もいたという。一方で「今の順位はこの監督のおかげだ」という声も根強い。

佐伯氏によれば、スペインのクラブ関係者の間では、観客はもう勝ち点だけでは納得しないという認識が広がっているという。勝てばエンブレムが輝き、ユニフォームが売れる。そんなブランディングの時代から、クラブのあり方そのものが問われる「信頼」の時代へ移っている。人々がスポーツにも「豊かさ」を求め始めたのだ。

ビジャレアルのホームゲームに来る観客は、チームを応援しに来るというより、演劇を観るようにフットボールを「鑑賞」しに来ている。見ているのはプレーの巧拙や勝敗だけではない。ミックスゾーンでの受け答え、記者会見での言葉、選手や監督の振る舞いまで、2万人の目が見ている。そんな中で人としてあってはならない行為を許容するなど、考えられないという。

ここでも佐伯氏は、「人ではなく行為」という原則に立ち戻る。僕らは応援するチームの選手や監督を、つい自分と同一視してしまう。だから監督が批判されると、自分が攻撃されたように感じてしまう。許さないのはその人ではなく、その人がした行為だ。この線引きを社会にどれだけ丁寧に伝えられるかが、豊かなスポーツをつくる最低限の条件だという。

見て見ぬふりを、スキルで越える

嫌だと思っていても、ダメだと分かっていても、行動を起こせない。佐伯氏は、それが日本人の大きな特徴だと言う。

対照的なのがスペインだ。佐伯氏が挙げたのは、数年前に整えられた「通報の義務」だ。調べてみると、2023年1月に施行された新しいスポーツ法(Ley 39/2022)では、競技連盟やプロリーグに差別・虐待・ハラスメントの防止プロトコルを設けること、該当しそうな事案を国の機関に報告することが義務づけられている。さらに子どもについては、2021年の児童保護法(LOPIVI)によって、暴力の兆候に気づいた人は誰でも当局に伝える義務を負う。スポーツの指導者のように子どもと接する仕事の人には、より重い義務が課されている。見て見ぬふりは、加担と同じだという考え方が、法律の形で社会に組み込まれているのだ。佐伯氏は、ラ・リーガが人種差別を徹底して通報しているのも、こうした流れが追い風になっているからだと語っている。

とはいえ、法律がなければ動けないわけではない。辛い思いをしている人を見たら、やはり行動しなければいけない。ただ、難しい場面があるのも事実だ。そこで佐伯氏が挙げたのが、アクティブ・バイスタンダーという考え方だ。その場に居合わせた人、見てしまった人がどう対応するか。それを勇気や正義感ではなく、身につけられる「スキル」として扱う。協会でも、今後の学習プログラムで提供していく考えだという。

もう一つ、佐伯氏が日本の弱点として挙げたのが、物事が国内で完結してしまうことだ。経済も言語も国内で回ってしまうから、世界で何が普通で何が普通でないのかを肌で感じる機会が少ない。だから意識して外に出て、他者の目を通して自分たちの「当たり前」を確かめる必要がある。世界には約200の国があり、それぞれが学びながら猛烈なスピードで前に進んでいる。ワールドカップに出ること以上に、本当の意味で世界の舞台に立つとはそういうことなのだろう。

まとめ ―― 変わるべきは、まず大人の側だ

ハラスメントの話と、育成の話。最初は別々のテーマだと思って見始めた4本の動画だったが、佐伯氏が語っていたのは、結局のところ一つのことだった。人は学習によって変われる。そして最初に学び直すべきなのは、選手ではなく指導者のほうだ。

「厳しい指導」は存在しない。あるのは、言葉の選び方と、相手の扱い方だけだ。だとすれば、明日からできることはたくさんある。

  • 自分の声かけを一度、スマホで録音して聞き返してみる
  • 「こうしろ」を一つだけ「今、何が見えた?」に言い換えてみる
  • 改善点を伝える前に、良かったところを一つ言葉にする
  • 選手を「お前」ではなく、名前で呼ぶ

どれも小さなことだけど、空気には名字と名前がある。一人の指導者が変われば、そのチームの空気は少し変わる。佐伯氏は、今の状況をスポーツをスポーツとして取り戻すチャンスでもあると語っていた。その言葉を、前向きに受け取りたいと思う。

この「まず自分にカメラを向ける」という発想は、サッカーに限った話でもない。チームの成果が出ないとき、ついメンバーの能力や姿勢に原因を探したくなる。でも本当は、指示の出し方や、答えを先回りして渡している自分のほうに原因があるのかもしれない。デバッグの基本は、まず自分のコードを疑うことだ。僕らエンジニアが人と関わるときにも、同じ姿勢が求められている気がする。

「教えない」指導をもっと深く知りたい人は、佐伯氏の著書もぜひ手に取ってみてほしい。

「教えない」指導をもっと深く知りたい人は、佐伯氏の著書もぜひ手に取ってみてほしい。
僕ももちろん読みました

参考リンク

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。

目次